31文字の世界

野暮用で御茶ノ水から神保町まで歩いた。

晴れた日でよく乾いた坂道を下っていく道のり。

書店に入ってなんとなく短歌コーナーへ足が向く。

31文字で世界をつくる短歌は、俳句よりも作為的に思いを込める余地があり、詩よりも言葉そのものの意味の広がりを味えて、わたしにはちょうどよいサイズな感じがする。

最近の短歌作家で面白い人はいないかと棚を眺めていて目に止まったのが、堂園昌彦の「やがて秋茄子へと至る」。

美しい装丁と、作者が19歳から29歳の時につくられたというそのナルシスティックでロマンティックな青っぽさをとても好ましく思った。やはりこういう歌は若い時にしか作れないよね、と思う。

余裕ができたら短歌をはじめるのもよいかも、と思いながらロシア料理屋でボルシチにサワークリームを溶く。その甘やかで非現実的なピンク色。

 

やがて秋茄子へと到る

やがて秋茄子へと到る

 

 

 

希望はいつも上のほうから「恋人たち」

 忘れないうちに昨年末に観た映画のことを。橋口亮輔監督の新作「恋人たち」。調べてみると「ぐるりのこと」以来7年ぶりの長編とのこと。

昨年観た映画の中でもベスト3に入る傑作。男女3人の群像劇で、それぞれが少しずつそれぞれの人生に関わりながら物語が進んで行く。

3人に共通するのは現状の生活に対する鬱屈。基本的には抑えたタッチでそれぞれの日常が描かれていくが、特筆すべきはオーディションで選ばれたという3人の俳優の存在感だ。とりわけ美しくもなく生活の贅肉がまとわりつく身体のリアリティ、その滑稽さと愛おしさ。そして3人の登場人物はいずれもがどうしようもなく弱い人間なのである、わたしたちと同じように。

この映画のタイトルは「恋人たち」であるが、3人が3人とも苦い(というにはあまりにも壮絶な体験をする”彼”もいるけれど)別れを経験することになる。でも(あるいは、だからこそ)、「恋人たち」という甘い予感、記憶を抱きしめて日常を生きていくしかないのだ。

ラストシーンの美しさは映画史に残るだろう。この最後の1ショットへと向かって3人の疾走はゆるやかに収束していく。そう、希望はいつだってわたしたちのあずかり知らぬ上のほうからやってくるのだ。それもわたしたちが予想もしない時に。

それにしても橋口亮輔はこの映画の主題、人間のやりきれなさとそこからの再生を語る上で、何を描いて何を描かないでおくべきか、その取捨選択のセンスが卓越していると思う。

 


恋人たち 2015 映画予告編

それでも虫音は鳴り止まず「野火」

塚本晋也監督の「野火」。言わずと知れた大岡昇平の同名小説を映画化した作品。

昨年話題になっていたものの未見だったので、ちょうど上映していた渋谷のアップリンクへ赴いた。劇場はほぼ満席。

塚本晋也自身が演じる主人公をはじめとした日本兵たちはみな痩せて泥に汚れ疲れ果て、眼光だけが白くぎらついている。

一方、ジャングルの木々や花、太陽の光、そして虫の声は彼らの生気をすべて吸い付くすように生命力に溢れ、ざわめいている。

というのが前半。

作品のクライマックスであろうシーンで彼ら兵士の肉体性が溢れ出す。

それは敵に銃撃を受けるシーン。肉片が飛び散り、血が吹きだし、内臓がむき出しになる。その色、臭い、質感がショッキングなほどに生々しくわたしたちの現前にあらわれる。

タイトルの「野火」とは彼らを悉く焼き尽くす生き物のような炎。その音、熱、運動が現地から生還した主人公の脳裏から消えることはない。

(それからリリー・フランキーの、男の嫌な部分を寄せ集めたみたいな先輩兵士役の怪演ぷりが見事だった。あれ、この人の本職なんだっけ?)

「戦争」というものがどういうものか、そして、「戦争」があらゆる局面で語られる時に意図的あるいは無意図的に隠蔽されるものが何かを、戦後70年のこの時期に提示することに成功した塚本監督に敬意を表したい。

などと思いながらマークシティのバーゲンでおそろしく素敵なワンピースを4割引で購入し帰宅。途中、若者たちでざわめく街と、鬱蒼としたジャングルとそこに響く虫の声、そして生々しい血の臭いとのどちらが現実か少し分からなくなった。

 


映画『野火』特報

脱ぐ男と晒す女 『極東のマンション』

2週連続で東京現代美術館へ。

目的は企画展「東京アートミーティング」の関連イベント、松江哲明スクリーニング&トーク。

真利子哲也監督の『極東のマンション』、松江哲明監督の『カレーライスの女』が上映された。いずれも2000年代前半に撮られた30分程度のセルフドキュメンタリーだ。

カレーライスの女』は何度か観たことがあり、鑑賞中からカレーが食べたくなる作品。松江監督の知り合いである3人の女性に、彼女らが住む部屋で手作りのカレーをご馳走になり一泊するという内容。3人の女性はそれぞれ松江の知り合いのピンク映画の女優、友人、(当時)の恋人で、それぞれの関係性がつくる松江監督との距離感が如実に表れる。若い男と女が一泊すれば、それは性的な諸々を意識せざるを得ず、それが絶妙に隠蔽されつつも露呈してしまう(もちろん意識的にだろうけれど)あたりの生々しさが面白い。

『極東のマンション』は初見。当時立教大学の学生だった真利子監督の「物語」を持たない自分がいかにセルフドキュメンタリーを創り得るかという格闘の一部始終。8ミリフィルムが太陽光を捉える粒子の粗い質感が若さと創作の苦悩の強度を象徴している感じ。カンボジア旅行で撮影した映像を両親に見せて「ダメだし」を受けるシーンが笑える。よくある自意識過剰な自主制作映画に収まらずエンターテインメントとして成立している。

それにしても、こういった自身のアイデンティティーを問うような自主制作の作品において、作者が男の場合よく脱ぐ。一方、作者が女の場合はどうかといえば、精神的なトラウマ的なものを「晒す」方向にいくような気がする。

松江は塚本晋也監督の「TOKYO FIST」を例に出し、90年代には「都市と肉体」をテーマに東京を描いた作品がいくつかあったが今後はアジアの中の東京を描いた作品が増えるのではと述べていた。

寓話の強さと弱さ『独裁者と小さな孫』

イランの映画監督、モフセン・マフマルバフの『独裁者と小さな孫』。

おそらく世界中を騒がせたパリのテロ事件以前に製作されたこの作品は現在の世界の「気分」を的確に捉えている。

観客をこの作品の物語へと強く引き込む装置が「寓話」である。この地球のどこかにある独裁国家。そこで始まるクーデターとそれにより追われる独裁者と彼の孫の逃避行。その世界は悲惨さや人間の醜さを孕みながらも美しい。冒頭の長いドライブショット、夜景きらめきのの明滅。ユーモラスでノスタルジックな在りし日の回想と哀しいエピソード。しかしそれらは寓話であるが故にリアリティを伴わない。本来であれば緊迫感を伴うはずのクーデターのシーンは寓話のフィルターを一枚挟むことでどこかユーモラスにも写り、ところどころで現れる血液の色はあまりに鮮やかで現実味がない。そこで本来感じられる、ないし感じなければならない痛みがそこにはない。であれば、その痛みのリアリティを排してまでも「寓話」という装置を使ったのはなぜかと言えば、普遍性への昇華だと思う。

クーデター後に追われ検閲を逃れようとする独裁者と孫。独裁者は孫の少年をたまたま居合わせた女性と母子だと装わせようとする。少年を不審に思った兵士はそ

の女性に、本当に少年が女性の子供かと問うが、女性が彼女の子供へするのと同じように無言でパンを分け与えるのを見て、女性と少年が母と子の関係であると認識する。あるいはクーデターにより釈放された元政治犯と独裁者とが酒の瓶をまわし飲みすることで繋がる長回しのショット。マフマルバフは、そういった関係性を表現する演出が抜群にうまい。

我々は独裁者とも共に踊り続けることが求められる。果たしてそれが可能なのか。寓話の力は弱くて強い。

 


映画『独裁者と小さな孫』予告篇

 

洗濯

洗濯が好きで、そして嫌いだ。

洗濯、すなわち、洗うそして濯ぐ。

「濯ぐ」という言葉の持つのどかさと清涼感が好きだ。

最近はフレグランス系の液体洗剤の隆盛により、時代遅れ感がでてしまった粉洗剤の匂いと、白に混じる少量の青の非日常的な鮮やかさが好きだ。

わたしの洗濯機は乾燥機能はついていないが、それでも、スイッチ一つで洗い濯ぎ脱水まで出来る簡潔さ。そして、作動中に発せられる振動と流水音、眠気を誘う穏やかな重低音のリズム。

干すのはよく晴れた日が望ましい。ベランダからはビルで切り取られた空が見える。

小物干しには両端のどちらかに傾かないよう、バランス良く靴下などを洗濯バサミで挟んでゆく。ハンガーは特に留意する点はないのでほぼ無心で。

干された生乾きの衣服が風で揺れるそのスローモーションじみた揺らめきの様を眺めるのが好きだ。

好きなのはここまで。

取り込んで畳む工程が嫌いだ。畳むのは難しくきれいにできない。

そして何より、洗濯をして干して畳んでタンスに仕舞う。わたしが生きて生活を続ける限り、この無限ループ的作業の必要性が常につきまとい、そのループから逃れることが永遠にできないという事実が、洗濯物を干したわたしの晴れやかな胸をほんの少し重くさせる。

でもそれは生活の重み、「穏やかな暮らし」の代償であり、ほかの人にとっては幸せなことなのだろうか。

未だわたしは精神的ノマドであり、日々に根付くことを心の奥底でおそれ嫌悪しているのかもしれない。大人なのに。

書きながら浮かんだ曲はクラムボンがカバーしたおおはた雄一の「おだやかな暮らし」。このアルバムは日本のカバーアルバムの中でも傑作の部類だと思う。

 

LOVER ALBUM

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蛍光灯3本ぶんの多幸感

蛍光灯が切れたので交換した。わたしの部屋のリビングは直管の蛍光灯3本で照らされることになっているが、そのうち2本が切れるまで交換を延ばし延ばしにしていた。怠惰、あるいは冒険。蛍光灯1本でみる景色と3本でみる景色の違い。それまで1本だった部屋を3本ぶんの蛍光灯の白い明かりで照らした瞬間、自分でも驚くほどの多幸感が湧いた。光が動物にもたらす単純な心理あるいは真理か。