寓話の強さと弱さ『独裁者と小さな孫』

イランの映画監督、モフセン・マフマルバフの『独裁者と小さな孫』。

おそらく世界中を騒がせたパリのテロ事件以前に製作されたこの作品は現在の世界の「気分」を的確に捉えている。

観客をこの作品の物語へと強く引き込む装置が「寓話」である。この地球のどこかにある独裁国家。そこで始まるクーデターとそれにより追われる独裁者と彼の孫の逃避行。その世界は悲惨さや人間の醜さを孕みながらも美しい。冒頭の長いドライブショット、夜景きらめきのの明滅。ユーモラスでノスタルジックな在りし日の回想と哀しいエピソード。しかしそれらは寓話であるが故にリアリティを伴わない。本来であれば緊迫感を伴うはずのクーデターのシーンは寓話のフィルターを一枚挟むことでどこかユーモラスにも写り、ところどころで現れる血液の色はあまりに鮮やかで現実味がない。そこで本来感じられる、ないし感じなければならない痛みがそこにはない。であれば、その痛みのリアリティを排してまでも「寓話」という装置を使ったのはなぜかと言えば、普遍性への昇華だと思う。

クーデター後に追われ検閲を逃れようとする独裁者と孫。独裁者は孫の少年をたまたま居合わせた女性と母子だと装わせようとする。少年を不審に思った兵士はそ

の女性に、本当に少年が女性の子供かと問うが、女性が彼女の子供へするのと同じように無言でパンを分け与えるのを見て、女性と少年が母と子の関係であると認識する。あるいはクーデターにより釈放された元政治犯と独裁者とが酒の瓶をまわし飲みすることで繋がる長回しのショット。マフマルバフは、そういった関係性を表現する演出が抜群にうまい。

我々は独裁者とも共に踊り続けることが求められる。果たしてそれが可能なのか。寓話の力は弱くて強い。

 


映画『独裁者と小さな孫』予告篇