アクリルの箱

「減るもんじゃないし」というよく聞く文句は嘘で、エントロピーの法則が宇宙にある限りこの世界で減らないものなどない。体験はその回数を重ねるほどに個々の重みきらめき特別さを減少させてゆく。

なので、もしその体験を絶対的なものにしたければ、もう何もしないことが一番よい。胸の奥底で瞬間冷凍保存するくらいに揺らぐ気持ちの襞を、視線の流れを、言葉の一つ一つの意味を、その一部始終を覚えているうちにアクリルの箱に密封して手は一切触れずその2ミリ上空で反芻を幾度も幾度も繰り返す。箱の中身は永久に変わらずその形を留め続けるが、2ミリ上空にどろどろとした粘度をもつ流動体が現れるのでその甘くて苦い紫色のものを、さてどうしようか。