映画を撮ることの困難 「アメリカの夜」

遅ればせながらずっと気になっていた阿部和重著「アメリカの夜」を読了した。

アメリカの夜」というフランス語が、絞りやフィルタを調節することで日中に夜のように暗い映像の撮影を可能にする撮影技法だということはこの本の最後のくだりで初めて知った訳だが、その瞬間にこの作品がただただ一つ「逆転の瞬間」(阿部は文中で「転向」という言葉を使っているが)に向かって集約されていたのだということに私たちは(というか私は)思い至ることになる。昼を強引に夜に変えてしまう撮影技法である「アメリカの夜」というタイトルは、ばかばかしいくらいに清々しく大胆に「逆転の瞬間」を象徴する。想起させる。このタイトルの意味を知った時、この決して読み易いとは言えないくどくどとした独白の文章の羅列ないし先の見えない思考の逡巡に、ある一つの指標が与えられて、この読書体験を違うものにしてしまうようなものすごく痛快な感覚を味わった。まさに「アメリカの夜」の意味を知った瞬間、読者である私も「アメリカの夜」を経験したわけで、数ある文学作品の中でもかなり秀逸なタイトルだと思う。「頭ならびに腹」とか「音楽」(三島由紀夫)に匹敵するような。ちなみに「アメリカの夜」は決して「逆転」の象徴ではなくて「逆転の瞬間」のそれである。逆転することそれ自体が主人公にとって重要なのであり、だから彼は「アメリカの夜」で世界中を永遠に撮影し続けなくてはいけないのだ。

そもそも、この小説はかなり入り組んでいて、神の視点的第三者目線かと思われた語り手が実は主人公の分身で、そのまた実は語り手の方が主人公だったという何とも複雑な様相を呈しているわけだけれど、語り手の名前が著者の名前を「逆転」させた「重和」であるように、複雑が一周まわってこれ(主人公)って阿部和重のことなんでしょと思ってしまう。ゴダールの誕生日に入籍するような絵に描いたような青臭いシネフィル(「シネフィル」って言葉書くだけでも何か青臭くて恥ずかしいものがあるな)の映画を撮りたい阿部和重。私もシネフィルとまではいかないけれどアテネフランセとか通うくらいには映画好きだから、この小説の痛さは何か実感として理解してしまう。で、なんで今私痛いんだろうと思いながら佐々木敦の解説を読んだら、「この本は映画を撮ることの困難を描いている」というようなことが書いてあってすごく腑に落ちた。(正確には「映画を作るとことの困難と小説を、ことばを書くことの困難と、この世に生きて在ることの困難」素敵。)「映画が好きだから、映画を撮りたいという欲望を何よりも強く持っているけれど、その好きという気持ちが強すぎる故に結局自分は映画を撮らないだろうということが分かっている」という何とも倒錯的な感情をシネフィルは(もしかするとというか絶対私も)持っていて、それはすごく通俗的な言葉で言えば「本当に好きな子とはヤらない」みたいな感情で、その感情は在りし日の恋に限りなく似ているから痛いんだとここに思い至った。

この作品の語り手は前述したように複雑に変化していく。いや、変化していくというよりは次第にその構造を明らかにしていくと言う方が正確か。はじめは神の視点的な第三者として現れる。では「神の視点的第三者」とは何なのかと言えば、それは言うまでもなくカメラ・アイ=映画である。次にこの語り手は「いやいや実は私は主人公の分身です」と第1回目の種明かしをし、この瞬間にこの作品は私小説になる。ここでカメラ・アイ=映画は文学に飲み込まれる。昼が夜を飲み込む春分の日のように。そして「いやいや主人公は本当はこの私です」と第2の種明かしがなされるわけだけれど、その瞬間に主人公不在となったこの小説は空転し小説であることを放棄する。というようなメタ映画兼メタ私小説が「アメリカの夜」の構造である。かなり刺激的である。

ここからは似非シネフィルである私の一人言。物語の最後、語り手の分身である中山は永遠に世界を「アメリカの夜」で撮影し続ける。前述した通り「アメリカの夜」は強引に昼を夜に変える撮影技法であるが、昼と夜とは何なのだろう。おそらく暗闇の中で上映される映画こそが、夜が象徴するものだ。ならば昼が象徴するものは文学だろう。映画が撮りたいと言っていた阿部和重。彼は処女作でその欲望をこの上なく倒錯した形で達成する。「この『アメリカの夜』はあきらかに、阿部和重の愛すべき監督第一作と言える(引用:『アメリカの夜』解説)」。とここまで書いて、物語の最後の最後に登場する語り手が強く引きつけられたという墓誌の白い空白はスクリーンなのではと考えてみたい誘惑にかられる。「このような誘惑を、ひとはことわることができるのだろうか」。

色々書いたけれど、この小説は傑作だ。技巧的に練られているにも関わらず、あらゆる創作物に共通する、作者が青春期に作られたものにしかほとんど醸し出すことができない特有の青臭い切なさみたいなものがこれでもかとにじみ出ていて単純にそれに胸を打たれた。

色々な人の批評をwebで見たけれど、「高い志をもちながらばかげたことをしてしまうという文学系譜」に本作があてはまる

http://chez-sugi.net/book/20031229.html

というのが笑えた。「高い志をもちながらばかげたことをしてしまうという文学系譜」って他にもいっぱいありそうだな。町田康の小説とか、「人間失格」とか。

 

アメリカの夜 (講談社文庫)

アメリカの夜 (講談社文庫)