アクリルの箱

「減るもんじゃないし」というよく聞く文句は嘘で、エントロピーの法則が宇宙にある限りこの世界で減らないものなどない。体験はその回数を重ねるほどに個々の重みきらめき特別さを減少させてゆく。

なので、もしその体験を絶対的なものにしたければ、もう何もしないことが一番よい。胸の奥底で瞬間冷凍保存するくらいに揺らぐ気持ちの襞を、視線の流れを、言葉の一つ一つの意味を、その一部始終を覚えているうちにアクリルの箱に密封して手は一切触れずその2ミリ上空で反芻を幾度も幾度も繰り返す。箱の中身は永久に変わらずその形を留め続けるが、2ミリ上空にどろどろとした粘度をもつ流動体が現れるのでその甘くて苦い紫色のものを、さてどうしようか。

いまださめず

渋谷地下鉄の改札の前では不細工なおとことおんなが体を密着させそのからだとからだの間にはいかなる意味も物質も入れまいという勢いで佇んでいる。いつもの光景。

すごく不細工なおとことおんなの日やちょっと不細工なおとことおんなの日とかその日その日に佇んでいるおとことおんなはどうやら別々のひと達なのだろうけど結局お前らのそのような差異などわたしの気持ちに塵ほどの影響もあたえずただ君たちがいるとねわたしの周りにまとわりつく空気が少し淀む。そしてその淀んだ空気はわたしの鼻腔から体内に入りきっとわたしの姿形にちょっとした影響をあたえているにちがいない。

茶色というよりは橙にちかく染めた髪の毛のその先を切りそろえ口のなかで咀嚼すればしゃりしゃり、と涼しげな音をたてるだろうと想像する。それで地下鉄に乗っているさ中に見ているものはいつも窓ガラスに反射して妙な色になったすっかり見知らぬわたし。

ヘッドフォン

ヘッドフォンで音楽を聴いていると、当たり前だけどそれは自分にしか聴こえず、周囲の人にはわたしがどんな音楽が聴こえているのかということは全く分からない。でも、わたしの中では色んなリズムやグルーブが響きまくりでもうすごいことになっちゃっている。それってすごく面白い状況だと思う。

他の人が見て想像しうる自分の中の知覚、感覚の質と実際自分が体験しているそれとのギャップ。自分を見ている他者が存在しなければ成立しないわけだけど。

それって誰かと手をつないでいるその触覚とかぬくもりとかにも当てはまるかも。見えないもの。見えないけれど存在しているものの存在。

鯵のひれの赤は血液の赤

鯵をよく見るとそのひれの付け根はほんのりと血液が透けていて赤く、それは注視しなければ分からない。このように最近の私は所帯染みていて、人が食べるはずの夕食などをその人たちが食べるタイミングに合わせて作ったりしている。

桜がまだ咲かないね、いや、この木の上の方は少し咲きかけているよ、あら、本当、来週には見頃になるかな、などと意味が沈殿せずに言った端からすべっていくような会話を繰り返す。情報の交換ではなく、コミュニケーションのための毛繕い的な会話をするための会話。

二階建ての立方体の中が今の私の世界のほとんどで、少しの本と音楽とインターネットで「外」の世界とつながっている。家族は私の分身のようなものだからそれはすなわち私であって、この数日間、私はこの家の中で膨張を続けているのだ。

私が膨張し、その破片が散らばる家という囲われた空間。そこに私の密度は増えていくわけで、そんな空間でひれの付け根の赤い(と私に確認された)鯵を焼いたりするそして前髪を切る。湖を眺めながら飲む甘くないカフェラテとか好きだけど、安住は今でもあまり好きではなく、高校生の頃に隠し持っていたジャムの瓶に入れたウィスキーのことを考える。

母と祖母と私がいて、その瞬間に私は過去と未来を同時に思う。

暑いのと寒いのと

寒いと悲しくなる。暑いと悲しくはならない。

寒いと緊張する。暑いと弛緩する。

寒さにあるのはある種の深刻さ切実さでそういうものが続くのはやっぱり嫌だなぁ。

だけどそんな私の趣味など反映されずに地球はというか地球の日本部分は、

明日もきっと寒いのだろうよ。

夕方に見る夢に たいていうなされる

小さい頃住んでいた家の半径50mから4kmあたり。わたしは幼くもあり現在の年齢でもある。要するに、私の歴史のあらゆる断片がつまっているそんな私。その断片のいずれもの濃度も同一で等価値だ。

混沌とセックスと黒い霧が背景にあって、私は確信を持って何かを望みながら裏山を散歩する。木のうろに大量の魚が詰まっていて出すことも動かすことのできない。一方にはその魚を狙ってやってきた猛禽類がお互いの羽に刺さって同時に死んだその一瞬が時間と重力を無視して凍結している。

私はそれを見て何かを理解する。そして祖母の家に帰る。祖母の家には幼い兄がいて玩具の自動車を動かして遊んでいる。幼い兄に呼びかける祖母の声。瞬間、幼い兄は成長した現在の兄になり、しかし両脚の膝から先がない。兄はここから動き出さなければならないと言う。祖母には兄は幼いままにしか見えず戸惑う。私は兄の歩くのを助け光に満ちた玄関から出て行く。そんな夢を見た。